ヒートテックとセルロースファイバーと延岡    Company♪

 

多々あるヒートテックの類似品の一つ「ヒートファクト」のズボン下と太毛糸の靴下。

 

 

足元は毛糸の靴下でプロテクト。

とにかく体の先端、手足を温めるのが肝です。

唐突ですが、ユニクロのヒートテックはなぜ暖かいかご存知ですか?

 

調べてみると、ヒートテックに使われるレーヨンという化学繊維は吸湿が飽和状態になるまで発熱を続けるという毛のような性質を持っていて、体から出る汗が繊維表面の水酸基に吸着することで運動エネルギーが熱エネルギーに変換されるので暖かくなるそうです。(難しい!)

 

そして驚いたことに、レーヨンは石油を原料とする合成繊維かと思っていたら、木材パルプを原料とするセルロースから成る化学繊維で、綿や麻と同じ成分だそうです。

また、レーヨンの吸湿性はセルロースファイバーと同程度のようです。

 

そういえば、私の尊敬する故・山本順三先生は貴著の中で、「セルロースファイバーの防音性能が高いのは、音エネルギーがセルロースファイバー繊維を振動させ熱エネルギーに変換するからだ」といった趣旨のことを書かれているのを思い出しました。

 

セルロースから成り、発熱機能を持ったレーヨン繊維に思いを馳せると、セルロースファイバーが断熱・調湿という秀でた機能性のほかに蓄熱・防音・制振(地震エネルギーを吸収)の機能性も持っていることを改めて思い出しました。(その他にも防炎・防カビ・防虫の機能性もあるのですが...)

 

ところで、ソフトバンクホークス柳田悠岐選手の父である、私の旦那の兄が育った宮崎県延岡市には野口記念館という公会堂があるそうですが、旭化成の発祥の地でもあります。以下の資料を読むと旭化成は近代レーヨンの生産に深く関わっていたようです。(野村IR資料参照

  

(以下は野村IRの「旭化成」資料、一部「羽田会の部屋」ブログから抜粋)

20世紀の化学工業は、アンモニア合成技術によって飛躍的な進化を遂げたといわれる。その用途は肥料にとどまらずさまざまな製品の原料となり、またひとつの製品をつくる時にできる副生物が別の製品の原料となり、各製品が関連しながら有機的に広がっていく。
旭化成の土台のひとつは、20世紀初頭の最先端技術アンモニアの化学合成であり、その端緒は野口のグローバルな先見性と大胆な行動力によって切り開かれた。

アンモニア合成とレーヨン事業

世界初のカザレ式アンモニア工場 日本窒素肥料延岡工場(1923年)

1921(大正10)年の初頭、「戦後のヨーロッパには何かある」と考えて、ヨーロッパに渡航した野口は、ローマに立ち寄り、新しいアンモニア合成法のうわさを耳にした。野口はアンモニア合成に関する論文を出すなど、この分野についての見識が深く、電気分解で得られる水素を利用する技術に成功を予感した。再び渡欧して特許契約を交わすと、宮崎県の延岡で工場建設にとりかかった。こうして1923(大正12)年、世界初のカザレ式アンモニア合成工場が完成。日本窒素肥料(旭化成の前身)は窒素肥料業界での地位を不動のものにし、巨大企業へ向けて躍進し始める。

カザレ式アンモニア合成法の発明者 ルイジ・カザレ博士

また野口はもうひとつ、旭化成の土台となるものをヨーロッパから持ち帰っていた。レーヨンである。レーヨンとは、セルロースを苛性ソーダで溶解してビスコースと呼ばれる溶液をつくり、そこから再び繊維を抽出して製造する人造絹糸である。野口は先の渡欧の折、ベルリンのグランツシュトフ社でレーヨンの製造を見学し、帰国後、その導入を重役会に諮ったが、「水に濡れれば切れてしまうような人造絹糸」と評され、賛成は得られなかった。

野口は別会社でレーヨン事業を立ち上げることを決意する。グランツシュトフ社とレーヨン導入の契約を結ぶと、旭人造絹糸という琵琶湖畔にあった旧式のレーヨン製造工場を譲り受け、最新の設備を据え付け、1922(大正11)年5月、旭絹織(株)を設立し、レーヨンの企業化をスタートさせた。

 

日窒コンツェルンの誕生

旭絹織膳所工場(1926年)

グランツシュトフ社がビスコース法以前に採用していた人造絹糸製造法は、銅とアンモニアの溶液を使った銅アンモニア法である。この製法にこだわり続けてきたのがドイツのベンベルグ社である。ベンベルグ社は技術改良を重ねて、より絹に近い糸の製造に成功していた。アンモニアの新たな利用法として、野口はこの「ベンベルグ」に着目。1928年11月に共同出資会社の設立と製造技術導入の契約を交わし、翌1929年4月、日本ベンベルグ絹糸(株)が設立された。

「ベンベルグ」とビスコース人絹の糸の断面。「ベンベルグ」はビスコース人絹のようにぎざぎざではなく、絹の断面に近い

この頃、日本窒素肥料は朝鮮に進出し、硫安肥料の製造拠点は延岡から電力費の安い朝鮮の工場に軸足が移っていった。アンモニアの新たな利用法として、日本窒素肥料の延岡工場に隣接してペンベルグ工場が建てられる一方、延岡工場は1931年5月に設立された延岡アンモニア絹糸㈱に水力発電設備とともに移管され、分離独立した。

2年後の1933年7月、延岡アンモニア絹糸、旭絹織、日本ベンベルグ絹糸の3社は合併し、旭ベンベルグ絹糸(株)が誕生。後の旭化成を予見させる姿がしだいに見えてくる。

野口は安く豊富な電力を求め、さらに朝鮮興南地区で年間50万トンの硫安を生産する大規模な施設を計画した。黄海に注ぐ鴨緑江の三大支流、赴戦江、長津江、虚川江の上流に巨大なダムを築いて人造湖をつくり、その水をトンネルを通して朝鮮半島東側の長白山脈から落差1000mといわれる日本海側に落として発電するという壮大な計画である。

ベンベルグ、レーヨン製品&ポスター

やがて興南地区には10社を超える日本窒素肥料の子会社や関連会社が設立され、工場敷地面積600万坪、総人口18万人という世界屈指の大化学コンビナートが出現した。この完成により「日窒コンツェルン」といわれる日本窒素系企業集団が形成されることになった。

(以下青文字は、ブログ「羽田会の部屋」から抜粋)

 朝鮮戦争当時の国連軍は、野口の朝鮮半島での事業を世界恐慌時のアメリカがニューディール政策の一環で行ったテネシー川流域開発公社を中心とした事業に匹敵するとし、「この事業が、野口遵という一人の事業家とそのグループの手により成し遂げられたことは、奇跡に近い」と世界に紹介しています。

 また、日産コンツェルンを創始した鮎川義介は、野口の事業を「財閥の背景もなく、政府の援助も受けず、まったくの独立独歩で世界の脅威ともいうべき大事業を成し遂げた。当時の日本では独創的で、かつ規模の雄大さにおいて、彼に比肩する経営者はいない」と評しました。

 野口は多くの事業を起こしましたが、日窒を源流とする企業の一つに旭化成があります。元の名を日窒化学工業と言い、銅アンモニアレーヨン糸「ベンベルグ」の製造を行っていました。旭化成のことを「ベンベルグ」と呼ぶのはこの頃の名残です。

 積水グループを擁する積水化学は日窒のプラスチック事業が母体となっており、積水化学の住宅部門が分離独立したのが積水ハウスです。

 積水化学や、日窒鉱業から商号変更したニッチツの大株主に旭化成が名を連ねているのは、いずれも日窒コンツェルンの傘下にあった名残です。

 化学工場は大量の電力を必要とするため、日窒コンツェルンは朝鮮半島で発電所事業も同時に行ってきましたが、ダム建設に従事したのが現在の日本工営です。

 日窒の出資によって設立された信越窒素肥料は、後に塩化ビニル樹脂や半導体シリコンウエハで世界トップメーカーに育つ信越化学工業の前身です。

 

旭化成の独立

日本窒素肥料の子会社、朝鮮窒素肥料の興南工場

1943年、旭ベンベルグ絹糸は、同じ日本窒素肥料傘下にある日本窒素火薬と合併し、日窒化学工業(株)と改称した。日窒化学は火薬を製造する軍需会社として指定されたが、空襲を受けながらも、かろうじて生き延びた。しかし、持株会社である日本窒素肥料は、終戦後の1945年11月にGHQによって財閥解体の対象企業に指定され、日窒化学を含む傘下子会社との資本関係を絶つことになった。

一方、朝鮮での発電事業は終戦直前には200万kWを超え、一大コンビナートを築き上げていたが、工場や事業所の80%以上が在外資産だったため、終戦によってそのすべてが失われた。ここに日窒コンツェルンは解散となったのである。

1946年4月に日窒化学は旭化成工業(株)に社名変更。同年12月には日本窒素肥料の保有する株式が議決権とともに持株会社整理委員会に移管され、旭化成は名実ともに独立企業体としての歩みを開始した。

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コメント: 2
  • #1

    だいじ (Thursday, 22 February 2018 02:00)

    めちゃわかりやすいなぁ
    改めて勉強になったわ
    延岡出身なのに知らないことばかり
    ありがとさん(^ ^)

  • #2

    柳田洋子 (Thursday, 22 February 2018 12:00)

    コメントありがとうございます。
    私は静岡の沼津生まれですが、生まれて直ぐに小田急相模原駅近くに引っ越し、その後も父の転勤で転校を繰り返したのでどこが故郷なのかよくわかりません。
    それにしても、旦那と延岡に行った時に印象に残ったのは、高い空と旭化成の大きな煙突ときれいな川と海です。(^^♪
    延岡西高校13回生のフェースブックサイトを旦那がたまぁ~に見せてくれますが、私の高校も同期のサイトがあればいいなと羨ましく思います。